26年も生きていることを誇りに思え

駄文を書いては捨て書いては捨て

日記 2020/03/19

週1更新定期

酒を飲んだら饒舌になる人間なので、ブログの執筆も酒飲めばスラスラ書けんじゃん?って思って飲酒したら今めっちゃ眠い 多分途中で下書き保存して翌朝起きたら執筆再開してる

 

高校の記憶を遡りたい

公立高校の受験が大変だった。帰国生は編入試験を受ける必要があった。日本の高校受験には明るくないが、自分が住んでいる県は、一般の公立中学に通う学生は公立高校を1校しか受験できない代わりに、私立高校の入試はかなりハードルが低かった。対して帰国生は公立高校を何校でも受験することができたが、人気の高い高校は枠に限りがあり、入試でよほどいい成績を残さないと入学は難しい。

 

自分の結果から先に話すと、公立高校の編入試験に5回落ちた。

受けた高校の偏差値は軒並み60台で、中には70に迫る難関校もあった。

高校1年の10月に一時帰国して受験を5回受けたが、いずれも不合格。流石に心が折れた。しかしこの無様な結果の責任は当然自分にあった。アメリカでは日本人講師が運営する学習塾に通って試験対策をしていたものの、自宅での勉強時間は毎日せいぜい1時間がやっとで、午前中〜昼過ぎまで塾で勉強して帰宅してから何も勉強しない、なんて日がほとんどだった。とにかくできる努力を怠っただけの怠慢クソ野郎だった。

こんな人間が偏差値60台の人気高校に受かるはずもなく、ただただ現実の厳しさと過去の自分の過ちに苛まれるだけの一時帰国を経験した。

翌月に本帰国し、直後に受けた公立高校の試験になんとか合格した。どうやら退学者が自分の学年で2名いたらしく、運よくそこに滑り込んだというべき結果だった。

 

実力ではなく運で掴み取った公立高校の生徒という切符。これは謙遜でも全くない。紛れもなく事実であった。

 

 

青春の高校生活に胸を躍らせながら入学した自分は、中学同様に卓球部に入った。なかなかガチで取り組む環境が整っていた。卓球部専用の練習場があったし、練習試合も積極的に行う部だった。部活は月2回程度の休みで、時には月1日しか休みがないこともあった。

最初はうまく部内の雰囲気に溶け込めているように思えた。同じクラスに卓球部の人が数人いたし、陰キャが多かったとはいえ自分も同じような人間だったため、そこまで自分が浮いているようにも思わなかった。練習や遠征はキツかったが、たまに同期と遊んだりカラオケにも行ったりして、順調に仲を深めているように思えた。

 

いつ頃からか、同期と少しずつ距離を感じるようになった。原因はおそらく自分にあった。自分は土日の練習や遠征をちょいちょいサボっていたし、その癖調子に乗った態度や言動が時々度を過ぎるようなことがあった、と思う。そのうち部活では孤立した存在になっていき、気づけば誰と話をすればいいのかわからなくなっていった。ダブルスのパートナーを選ぶ時は特に苦痛だった。同期で仲のいい存在といえる人物がおらず、話ができる人はいわゆる1軍のメンバーだったため、2軍だった自分が指名することなんて到底できなかった。大好きだった卓球に嫌気が差し始め、入部から半年が経った高2の7月に退部届を出した。顧問からは「何も言わずに辞めるんじゃなくてちゃんと退部届を出して辞めたのはすごい」と褒められたが、そんな言葉さえ惨めに思えてしまった。

 

高2の頃は本当に楽しくなかった。自分の高校は帰宅部カースト最底辺だったので学校ではひたすら目立たないようにひっそりと暮らしていた。親には部活に入り直せとしつこく言われたが、結局卒業まで帰宅部のままだった。写真部に転部した時期もあったが、初回の活動に参加しなかったので多分入部は認められていないと思う。

 

朝から学校に行って授業を受け、周りが部活に青春を捧げる中、帰宅部帰宅部コミュニティを形成してひっそりと駅まで歩いて帰る日々。親から塾に通わされていたのでたまに塾で勉強することもあったが、基本的には自宅直帰がルーティンだった。

 

高2の文化祭ではクラス内でちょっとした事件もあったし、滅多に人を嫌いにならない自分が、本気で人を嫌いになるなどして、とにかくネガティヴで陰キャオーラを纏っていた。

 

幸いなことに高3はクラスメートに恵まれた。話す人も増えたし、元卓球部の同期とも気づけばわだかまりもなくなった。しかし陰キャだったので恋愛には全く縁はなかった。告白なんてものもLINEでしかできなかった。当然振られた。きっしょ

 

成績は順調に伸び、一時期の模試では文系3科目の成績が学内3位になるなどし、学力ではかなり自信があった。まあそりゃ部活もやらずに塾に通っていたわけだからある意味当然っちゃ当然ではあるが。国立志望だったが理数系が壊滅的に苦手だったので、一応センター試験では5教科7科目受験したが半ば記念受験の気分だった。高3の秋くらいに第一志望を某早慶にしたが、もっと早い段階で国立に見切りをつけて早慶対策をしていれば、今頃意気揚々と紫紺の歌を歌っていたかもしれない。早稲田はクソ。やっぱり○治がナンバーワン。

 

 

 

 

で、4年前の先月ごろ、現在通っているMARCHの某大学に合格した。正直めちゃくちゃ嬉しかった。自分の学力では早稲田はあと1年勉強しないと合格の可能性はないと思っていたし、正直MARCHでも十分満足してたので、合格通知を見た瞬間に心が燃え尽きたような感覚があったことを今でも鮮明に覚えている。

 

正直母校にはあまりいい思い出はないが、この高校に通っていなければなかった出会いもあるわけだし、楽しかった思い出も、苦い記憶も、全部いい経験だった、とは一概には言い切れない。極度の陰キャだった高校生活を送っていたせいか、いまだに高校生活への未練を捨てきれないのが正直な気持ちである。もう高校生なんて二度と戻ることはできないのにね。アホくさ

 

 

総じて陰キャの根暗ストーリーって感じの高校生活。悔いしかない。やり直したい。

 

 

よく「人生やり直せるなら、どこからやり直したい?」という質問が世の中には飛び交うが、自分だったら中学2年の渡米からやり直したい、と答えるかもしれない。

間違いなく中2の夏は自分の人生にとって最大のターニングポイントだったと思う。

 

帰国子女という一見優雅な肩書きを持っている人間ではあるが、内心では劣等感に常に苛まれ続け、高校では明らかなスクールカースト同調圧力に居心地の悪さを感じていた、そんな学生時代。

大学では多少マシにはなったし、陰キャ度も少しは下がったと自負している。

 

 

そんな学生生活もいよいよあと10日もすれば終わりを告げてしまう。社会に出る実感なんて正直これっぽっちもないし、まだまだバカなことやって、バカな日記を書いて、徒然と写真を撮って、友人たちと酒を飲み交わしていたい。

 

 

 

いずれは社会に適合してしまうのか、はたまた社会への適合に抗うのか。

どうなるかは全く予想がつかないが、少しでも夢と理想を掴めるように日々邁進するのみであろう。

 

 

夢を記す。

 

 

「「何者」かになりたい」

 

 

 

 

 

以上、小中高の振り返りでした。結局寝ずに書き通してたわ。おやすみ。