28年も生きていることを誇りに思え

自分でエッセイと言うのは恥ずかしいので日記という体でやらせてもらってます

日記 2025/12/31

俺という存在が世に解き放たれから、実に28年もの歳月が過ぎ去ってしまった。相変わらず師走という月は、妙に世間が浮き足立っているように思える。俺は常に世の中から浮いているのだけれども。笑 本当に笑い事ではない。

 

何を望んでいるのか、何になりたいのか、再び分からなくなってしまった!

 

振り出しに戻った。それだけならまだいい。弱くてニューゲーム状態である。

歳を重ね、いよいよ傍若無人に生きることが許されない立場になりつつある、ということを日に日に強く感じる。もう失敗は許されないし、失敗してしまった後の取り返しがつかなくなる頃合いに突入してきている。現状を変えられなかったことを悔やみ、絶望的な未来から逃避したくなる。順調にキャリアを重ねていく人々、結婚や出産など、人生の次なるステージに移行していく人々、夢に向かって今を生きている人々。

自分はいったい、何のために生き、何を成し遂げるために働いているのか。

少なくとも、それを見つけることができたように思えた1年ではあった。ただ、あまりにもそれを自分の外部に委ね過ぎてしまった。それらが全て崩れ去った今、俺には今何が残っているのか。いや、何も残っていないに等しいといえるかもしれない。

 

あまりネガティブなことは文字に起こしたくはない。が、2025年のうちに、全てを吐き出して、新たなまっさらな1年を迎えたい気持ちが勝っている、というのが本心ではある。

 

不本意ではあるとはいえ、自分の意思で仕事に復帰することができた。徐々に負荷が増え、理不尽や自分の無能力さに嫌気がさしてしまう時期もあった。

自分の意思で、人間関係を変えていった。その最中で、ある時は人を傷つけ、ある時は人に傷つけられた。

 

物事には表と裏があり、どちらが善でも悪でもなく、その物事を受け取る人によって、その意味は大きく変わることになると思う。俺はあまり物事を良い方向に捉えることができずに苦しんできたし、今もこの悪癖は抜けきっていないと思う、と自分では考えている。要するにネガティブ思考がこびりついてしまっているということだ。じゃなかったらこんな文章を世に解き放とうとは思わないだろう。

 

2025年は多くの辛い局面に立ち向かわなければならなかった。先述した仕事や人間関係において、厳しい状況に立たされ、やりきれない思いや報われたいという怨念ともいえる執着に支配されてしまうことが多々あった。特に下半期に関しては、心身ともに限界を迎えてもおかしくないほどに追い詰められていたと思う。

 

そんな1年が終わり、正直本当に嬉しいという思いに満ち溢れている。

2025年は、はっきり言ってしまえば最悪の年だった。そんな1年に別れを告げ、希望に満ちた1年を待ち遠しく思っている。

 

実現したいことがたくさんある。それをどう選びとるか、いつ決めるかなどはまだ迷いが残っているが、こんなにも多くの光が待っていると思える年は久しぶりではないかと思う。

職を変えてみることに、恐れや不安が徐々に少なくなりつつある。現状に大きな不満があるわけでもないし、むしろ精神的にダウンしてしまった自分に仕事を与えてくれることに、多大なる感謝の気持ちを抱いている。とはいえ、自分のなりたい姿や実現したい夢など、そうしたポジティブな未来を描いていけるかは未知数であり、それを実現できそうな場所が見つかれば、環境を1から変えるリスクを覚悟してでも、そこに飛び込んでいきたい。年収が上がるようなことがあれば最高だが、そこはあまり求めすぎないように、謙虚に粛々とやるべきことを続けていきたい。

住む場所も変えていきたい。これは可能な限り早めに実現したいことである。

実家に住むことで得られるメリットは多い、がしかし、自分の「ホーム」と言える場所を、自分の手で作り上げていきたい。そしてその街で得られる様々な刺激を味わい、人として深みやキレを出していきたい。関わる人を増やしていきたいし、そうするための理由づくりとしての引越し、という側面もあるかもしれない。

あと、歯列矯正もしたい。年明けに歯医者に行くので、その際にまた相談しよう。自分の懐事情とも良く相談しなければ。

 

国内旅行をたくさんしたい。仙台はマストで行かなければならない。1年半後に勝って泣きたい。そろそろ上高地にも行きたい。北陸で美味い魚と酒を嗜みたい。九州には降り立ったことがないので、無難に福岡か、大分・宮崎あたりも旅したい。

あと、海外にも行きたい。プレミアを生で観たいし、ヨーロッパを歩き回りたい。絶対にカメラを忘れずに携帯したいところ。

美味しいワインをたくさん知りたい。うまいビストロやワインバル的なお店を見つけていきたい。

服にはあまり興味がなくなってしまったが、何かしらいい服が欲しい。何を着ることでテンションが上がるのか、改めて考えてみたい。

何かしらのスポーツコミュニティに属してみたい。草野球でもいいし、フットサルなんかも楽しそうだ。あとはランニングと筋トレも継続して、心身ともに健康であり続けたい。

 

迷ったらやる、をモットーに。2026年はそんな年にしていきたい。

 

このクソッタレな1年にオサラバポンポン!明日からは、笑顔の自分になれるよプンプン!ということです(ランジャタイ 漫才『くそったれ人生にさよならぽんぽん』より)

 

今年も1年、こんな怪文にお付き合いいただきありがとうございました!

日記 2025/11/17

様々な感情が渦巻いており、すべてを吐き捨てて楽になりたいという思いが正直なところだが、言いたくても言えないこと、言わない方が身のためになることを抱えすぎてしまい、どう折り合いをつけて良いかわからずにいる。

なるべく詳細に語ることを避けるため、曖昧な表現や回りくどい言い回しが始終続くため、読者の方におかれましては、何を言いたいのか理解することが困難になってしまうかもしれないことを予めご承知おきいただきたい。

 

これまで自分を繋ぎ止めていた豊かな現実や、将来の指針ともいえるような、約束された未来というものは、ある些細な瞬間によって、いとも容易く失われていく無惨さを、改めて痛感した。

 

あまりにもあっけなかった。

これまで築き上げてきたものは、さながら砂浜に造られた城のように、わずかに儚げな音を立てて崩れ去っていってしまった。

 

裏切られた、と結論をつけるには時期尚早かもしれない。ただ、そのような感情が脳裏をよぎってしまった時点で、もう無理なのかもしれない。

 

全ての望みは潰えた。

 

不思議なことに、自分を苦しめる出来事は立て続けに襲ってくる。

 

止めどなく発生する不具合、何度も客先に足を運ばなければならない身体的不安と、上司を含む多方面から随時浴びせられる叱責、悶え苦しむ他メンバーの姿を見ることによってもたらされる精神的不安とが、何層にも重なってワーキングメモリを圧迫していく。

 

終わりの見えない、逃れることのできない苦しみに支配されていく。

 

心も脳も破壊されてしまった。

 

この文章を記すことができているので、正確にはなんとか完全破壊は免れているのかもしれない。靭帯でいうところの部分断裂といったら伝わる人には伝わるはずだ。伝わらない人の方が多数であることは言わずもがな。

 

今は仕事のことだけに集中する、ないしは今後のキャリアに真剣に向き合う、読書や映画鑑賞といった、これまでずっと着手したくても何かとできない理由を探して時間を割くことができなかったインプット作業に取り組む、筋トレやランニングなどを再開する、J1昇格という至上命題のために戦う(?)など、この鬱屈とした感情から逃避できる可能性のある行為は数多あるかもしれない。

それらと向き合うには相応のエネルギーを要する。そして、それらによって心の奥底に沈む闇を完全に取り払うことのできる保証もない。そして、何もする気が湧かない時点で、既に心身の崩壊は取り返しのつかないほど進行している可能性もある。

 

 

生きる意味を失ってしまった。生きている理由がない。

 

だけど、死にたくもない。

生きる意味はないかもしれない。だけど生きていかなくてはいけない。この命の価値なんてないことには気づいている。

 

しかし、それでも生きなくてはいけない。

自分の脚で、フラフラになりながらも立ち上がらなければならない。

 

耐えろ、耐えろ。

ここ最近、そう言い聞かせることを心がけている。

耐えるしかない。

この暗く澱んだ深海を、それでもなお泳ぎ続ける。

日記 2025/10/22

今になっても、相変わらず様々な面で問題を抱え続けている。

いいことばかりではない、その言葉に尽きる。

 

決して毎日生きることに苦痛を覚えているわけではない、と言いたいところだが、ここしばらくの間、心身を擦り減らしに擦り減らし続けて、身体の内外にあらゆる痛みを抱えながらも、ようやくなんとか、毎日起き上がれているような感覚に苛まれる。

 

日々を生き抜いていく中で、報われてほしいと願う瞬間があまりにも多い。

 

成果のことは一旦棚に上げて、これだけ頑張ったんだから、もう少しだけでもいいから報酬を上げてほしいと考えたり、誰かのために、今の自分にできる最大限を発揮しているのだから、自分もたまには誰かの最大限を受容したいと期待してしまったり、平日に辛い思いをしながら労働に勤しんでいるのだから、推しクラブには勝ちを届けて欲しいと責めてしまったりする。

 

つくづく、器の小さい人間だと思う。

 

全部どうしようもないし、自分にコントロールできる話ではない。自分ではない何かや誰かに感情の舵を奪われ、自走を困難なものにしてしまっている。

 

「よりよい未来に期待しているから、たとえ今が多少苦しくても耐えることができている」

おそらくはそのような状態なのではないかと思う。まさに報いを欲している。何かや誰かによって自分自身が形作られ、自らの存在価値を定義し、自分の生きる糧としてしまっている。

 

何にも執着せず、何にも依存せず、自我や自己といった、揺るぎない軸のようなものを持ちつつ、何かや誰かという、自分では操縦できないものに対して、適切に距離を保ちながらも、孤独には陥らないように生きる。そうして生きていかなければならないと、改めて思う。

 

「自分にとっての他人」を勝手に想像することに長けてしまっている。だからこそ、架空の存在をでっち上げては失望する。これの繰り返しである。

 

人間の本質は社会を作り上げることであるはずなのに、巷では「他人に依存するな」だの、「自分の機嫌は自分で取れ」だのと曰う高尚な人間様で溢れている。そうできるならそうしている。そうできないから、人は群れ、子孫を残し、家庭を築き、社会を成立させる。かなり多くの過程を端折ったが、「人間は決して独りでは生きられない」ということを言いたい。

 

勝手に期待しては、勝手に裏切られた気持ちになる。

上手く走れた途端、すぐ足を取られる。

雨が上がったかと思いきや、また雨に頭を濡らされる。

 

何度も転んでは立ち上がり、また転んでは立ち上がる。そろそろ、立ち上がれる気力が尽きてしまいそうだ。

 

何もかもどうでも良くなって、全てを終わらせてしまいたくなる。理性という名のブレーキを目一杯踏み込んで、ようやくその衝動のアクセルを抑えている。

 

一縷の望みを、指先だけでなんとか掴んでいる。さながらSASUKEのクリフハンガーである。飛び移ってもまたクリフハンガーに引っかからなければ、底に落ちていく。

嫌だ、まだ落ちたくない。せっかくここまで来たんだ。何としてでもクリアしたい。

 

 

 

ま、多分季節の変わり目だからちょびっとだけ鬱っぽくなっちゃっただけだよね〜ん、そうだよね〜ん、なーにがクリフハンガーやねんもっとぶっといもの掴んでいるやろ自分SASUKEと一緒にすなよ

 

とりあえず、もうちょっと頑張ってみるかな!

今日は雨降りでも、いつの日にか!

日記 2025/09/23

チラシの裏に書いては捨て、書いては捨てを繰り返したような文言が、はてなブログの下書きに残されている。あまりにも稚拙で要領を得ない駄文の積み重ねである。

色々と考えることは多いが、結局のところ自分が何を伝えたかったのかも分からなくなりかけている。

 

今から残す文章については、嘘か本当か、虚言か真意か、判断はそれぞれに任せたい。

 

ここ数ヶ月の間で、実に様々な出来事に見舞われた。というと、あまりにも他人事のようで、自分の意思とは反する形で巻き込まれたように聞こえてしまう。受動的に、自分でも気付かないうちに飲まれてしまった波もあれば、自らの決断によって発生した渦もある、というのがより正確だろう。

 

拠り所にしていた場所が失われるのか、自分から離れていくのか。

もとより、いずれはこの場所からは離れる、というより、あまり頻繁には訪れることは難しくなるようは生活に移り変わっていくと考えていたが、予想よりも早くそのタイミングは訪れそうな空気が漂っている。

 

立つ鳥跡を濁さず、という言葉がある。果たして自分は、その言葉を体現できるのだろうか。

少なくとも、なるべく後腐れのないよう、よりハッピーな結末をもってして、自分のこれからの人生を見送ってほしかった。具体的にいえば、結婚や同棲、仕事上の都合などがそれに該当すると考える。もっと平和的に、皆から快く送り出してもらえるような、ざっくりいえばそんな雰囲気だろうか。

後ろ髪を引かれるような、そんな名残惜しさを仄かに残したまま、人生の階段をまたひとつ登っていくのだろうと、淡い期待を抱いていた。

 

だが現実は、今すぐにでもそこから立ち去りたくなるような、人間の愚かな部分だけを濃縮して抽出したような、息苦しさと生きづらさに満ちたものに変わってしまった。

他人を下げて取る笑い、聞きたくもない噂話、酒に溺れた群衆と、それを扇動する者。かつて自分を満たしていた、平穏で居心地の良かった環境に、嫌悪にも近いような感情を抱くようになってしまった。

 

こうなってしまったのも、全て自分が悪い。

投げやりな帰結だが、そう思い込むのが、一歩を踏み出すには都合のいいトリガーだと思えてしまう。

 

もっと上手く振る舞うことができるのなら、偽りの中で自分を保ち続けることができるなら、それを実現できるだけの余裕や心の豊かさのようなものがあれば、引き続き楽しくいられる空間であり続けると思う。

 

色々と疲れてしまった。自分の責任も多々あることは重々承知しているが、わざわざ不快な思いをしてまで固執する場でもない、そう考えることが多くなってきてしまった。

むしろ自分が姿を消した方が、周りにとっても気を遣わざるを得ない存在がいなくなることで、これまで通りの和気藹々とした空間であり続けるかもしれない。

 

とはいえ、愛着があるのもまた事実だし、多くのことを学ばせてもらった恩や感謝は尽きることはない。容易く切れるほどの縁ではないと、そう信じたいのもまた正直な心情である。

 

誰かにとっての居心地の良さは、他の誰かの心地よさと必ず一致することはあり得ない。ましてや、多くの人々が交わるのだから、その実現可能性はさらに低くなっていく。

だからこそ、自分が動き出さなければならない。自分で招いたことなのだから、誰にも迷惑をかけたくないし、誰も不幸になってほしくない。様々な事柄の尻拭いをする意味も、多少なりとも含まれている。

 

結局のところ、自分のエゴがあって皆生きている。自分のことが何よりも一番大事なのは普遍的なことだ。そのエゴを真正面から否定することなど、もってのほかである。

みんながみんな、生きたいように生きればそれでいい。幸も不幸も、全てはそれぞれの判断によって決めるべきである。

 

自分が進むべきと思って切り開いた道も、きっとよりよい未来に続くと信じている。

 

今回書きたかった感情は、総じてMr.Childrenの「未来」によって歌われているのであった。

日記 2025/07/26

会社に復帰した。

正式復職からすでに1ヶ月が経った。リハビリ出社期間を含めれば、まもなく2ヶ月を迎えることになる。

 

休職期間中の自由な時間が恋しくなることもあれば、一定のリズムで繰り返される時間に充実感を覚えることもある。時折、すごく疲れてすべてが嫌になることもあれば、もう少しだけ頑張ってみるか、という思いにもなる。先の見えない暗闇に押しつぶされそうになる時もあれば、未来に向けて光が差すようなこともある。一言で片付ければ、複雑な心境である。

正直、先のことを考えてしまっては際限がない。無限の希望を抱くことができる一方で、閉じこもろうと思えば、いくらでも深い闇の中を彷徨うこともできてしまう。自分はそういう人間である。むしろ、そちら側に誘われてしまうことの方が多い人生だった。未来のことなど、誰にも予測できない。自分の寿命さえ分からないのだ。

 

今に集中する。これが、現状の最善策であると考えている。

 

自分を変えていきたいとか、この職種・この職場で成長していきたいとか、そういった類の展望を描けているわけではない。まずはそのための準備期間が必要だと考えているからである。今はまだ、これから高く跳ぶためのステップを踏む段階にあると捉えている。今後のことは読めないからこそ、今は労働者である自分を受け入れ、周りと適切に関係性を築き、自分に与えられた役割を全うすることが全てだと思う。

以前と比べたら、だいぶ現実的な思考に従って行動が伴うようになってきた気がする。実際、そこは意識的に変えていこうとしているかもしれない。目の前に置かれた状況を理解し、受容することで、少しずつ精神状態が良い方角に向いているような気もする。有難いことに、上司や同僚も、自分に負荷をかけすぎないよう、業務量や内容を調整していただいていることもその要因であることは言うまでもない。

予測のつかないことを恐れてウジウジしているくらいなら、思考を放棄して、現状を乗り切ることに全てのリソースを割く方が、相対的に気楽に生きることができるかもしれない。どっちにしろ「ああしておけばよかったな」とか「もっとこうすることができた」と後悔するのは変わらないので、それだったら行動を起こした後者の方がより良いのでは?とも思う。

 

やはりと言うべきか、結局のところ、完璧主義を脱することが最も重大な課題である。

誰しもそうであるかもしれないが、将来のリスク管理や自分の人生へのこだわり・執着のようなものに、相当の思考リソースが割かれているのではないかと感じている。

最近、ふと思い立ってMBTI診断を受け直した。以前はINFP(仲介者)というものだったが、今回はINFJ(提唱者)に変化していた。

様々な媒体から情報を得る限り、このINFJに該当する人間は、人一倍リスクを恐れて行動に移せない面があるやら、自分の理想に対してコツコツと努力を続けるだとか、自分に当てはまっていそうで当てはまっていなさそうな気質であることを知った。どこかバーナム効果を感じる。まあ心理テストや性格診断の類は大体どれもそんなもんだろうか。

 

リスクを恐れて行動に移すことが難しいことは、「そういう人間だから多少は仕方ない」という考えに至った。

自分とは正反対の、行動力の塊のような人間に対して、強烈な羨望を抱いたことは数多くある。「根拠のない自信」によって行動を起こすことのできる人間に対しては、羨望と同時に「愚かだなあ」と思ったことさえある。そのような人間になろうと、自分なりに取り組んだことも様々あったが、結局のところそのような人間に生まれ変わることは叶わなかった。

 

だが、今においては「自分はこういう人間だし、そらなりたくてもなれんよ」とある種の達観、ないしは諦観の境地に至りつつある。

 

今までは、自分の「できていない」「不十分な」部分に意識が向いてしまい、それらをどうにか克服しようという「完璧主義」だけは存在しており、結果的に改善できずに自らの無能力を痛感し、「自分は出来の悪い人間だ」と否定していた。それの繰り返しだった。

何を変えたのか、どのようにして変えたのかは定かではないが、少しずつそういった悪循環から抜け出せそうな気配を感じている。そういった意識の変化がMBTIにも現れているのかもしれない。少しずつ、「本来の自分」というものを受容することができるようになってきた感覚を得てきている。

周りの人間にも恵まれていると思う。常にポジティブな言動や振る舞いによって、捻くれに捻くれた自分が徐々に解けてきている。そうした人間のおかげで、本来の自分とはこういう人間で、周りにはこう見えている、という客観視が少しずつできるようになってきた。

あえて悪くいうなら、歳を重ねたことで、昔ながらの野心のようなものが薄れてきてしまった、という面もあるかもしれない。もともとそこまで野心的だった自覚はないが、行動に表れなかっただけで、そこそこ高い理想は常に抱えていたことはこの日記を読んでいただければ少なからず察してもらえるだろう。

 

そんなことより「INFJがモラハラ」とかいうツイート(現ポスト)が流れてきて最悪だ

日記 2025/05/17

休職から1年が経過してしまった。

正確に言えば、人事手続き上は昨年の6月末から休職期間という扱いになっているのだが、休職前の有給消化や欠勤なども含めれば、昨年の4月末から仕事をしていない状態である。

 

結論から言えば、今月から復帰に向けて動き出すことになった。

 

具体的な手順を説明すると以下の流れになる。

①通院中の心療内科から復帰可能の旨が記載された診断書を発行してもらう(済)

②直属の上司、産業医などとの復帰可否面談(済)

③3週間にわたるリハビリ出社

④職場復帰

このうち①と②はそれぞれ4月中旬、5月中旬に完了し、現状はリハビリ出社の開始を控えている状況である。

 

そんなわけで、社会復帰が刻一刻と我が身に迫ってきているのだが、実際のところ、ようやく一般的な人間活動が送ることができるまで回復できたという安堵の感情以上に、この先に訪れる難儀で退屈な、時間的自由を制限された生活に対する忌避感情の方が強く意識されてしまっている。

来週の朝、1年前に忽然と姿を消した激ヤバ男が、突然職場のフロアに姿を現すのである。既知のメンバーもさぞどのように接すれば良いか気を遣うだろう。一応、部長から部署全体に自分が復帰する旨は事前連絡するとは聞かされているので、多少は受け入れ体制は整っていると言えるかもしれない。

 

とはいえ、1年休んでいるのだ。

 

適応障害で休んでいたかどうかをメンバー全員が把握しているかは定かではないが、どうみてもイロモノ、もっと悪くいえば腫れ物として引き続きあの部署に居座り続けることになる。正直、今から生きた心地がしない。

こうした被害妄想も、将来の人生に対する不安感情も、全て取り越し苦労のようなものであるだろうし、世の人間の多くがこれらの後ろ向きな感情を抱えながらも、日々の生活のために必死に前を向かざるを得ない状況であることも重々承知している。

 

少なくとも今は、不安に満ちた中でリハビリを始める決断をできた自分を労わりたい。それと同時に、腫れ物として人間の価値を落としてしまった自分を傷つけたい。

 

自己否定に陥ったところで何も生まれないことはこれまでの人生で何度も何度も実感しているのに、どうしてこうもネガティブから脱却できずにいるのだろうか。

 

人生において、何の不安や不満もなく毎日を充実した気持ちで過ごせている人間はごくわずかである。大谷翔平にも水原一平とかいう不純物(失礼)がいたし、今をときめき、明日にきらめく芸能スターにも多くの悩みがあるはずだ。自分の身の回りにいる素敵な人たちにも、様々な悩みを抱いていることだって知っている。それを知っているからこそ、悩みや不安を抱えて身動きが取れなくなってしまう自分に嫌気がさす。

 

1年間まるっきり休んでいたにもかかわらず、いまだに理想と現実の狭間を漂い続けている。脳内には常に、休職期間の生活に対する満足感や理想的な未来が漂いながらも、そのすぐ脇で、現状に対する不足感や劣等感、将来への不安、社会性や帰属意識などの現実的な問題が重く沈んでいる。そうした沈殿物を取り除こうとして、焦燥感に駆られて行動を起こす。そして行動を起こした結果、また別の感情が底に沈んでいく。

 

一言で片付けるなら「大人になりきれていない」ということかもしれない。

学生気分のまま、様々なしがらみや理不尽を受容することができず、自分の人生にも責任が持てないまま、この年まで生きてしまった。

週休3日やら、手取りでウン十万(具体的な数字はいえばキリがない)やら、自由に働ける環境やら、気軽に関わることのできる同僚やら、求めてしまえば様々なものが挙げられる。もっと言えば、才能の有無を考慮しなくてよいのであれば、俳優や芸人、歌手などの芸能界にも憧れはある。フリーランスになって上記の理想の働き方を実現することだってできるかもしれない。

 

とはいえ、現実はそう甘くないことも十分に理解している。

だからこそ復職という手段をとった。理想と現実との足の引っ張り合いの狭間で、27歳半ばという年齢の重みを、人並みには受け止めようとしている。

 

何者かになりたい、と数年前に綴ったことをなんとなく覚えている。

その気持ちを表出することなく、穏やかに生きることもまた人生なのかもしれない。

 

ひとまずは、毎朝6時に起きに慣れることから始まる。

日記 2025/03/18

複雑さを愛する、という言葉が離れずにいる。

 

自分のことしか考えられない割に、自分のことを一番理解していない。

誰かに何かしらを指摘されることで初めて、自分の内面に目を向けることができてしまうことが往々にしてある。そしてそこで見えてきたものは、必ずしも美しく賞賛に値するものではない場合がほとんどである。

そんなディスアドバンテージを抱えているにもかかわらず、というよりもだからこそ、他己分析という名の褒め言葉浴びせタイムを設けたいレベルで肯定感情に飢えている。常に不安に付き纏われているので、誰かに慰められることで少しでも楽になりたいという欲に駆られる機会が増えている。あくまで素人からみた素人の範疇でのことは重々承知しているが、歌が上手い、演技がいい、文字が綺麗などという称賛を受けたこともあった。しかし、現段階で一刻も早くそれを欲しているわけではない。なぜならそれは今後において自らを突き動かす原動力となり得ないからだ。

 

自分では気づくことのできない、自分らしい部分を、おそらく最も求めているのかもしれない。

 

何度も何度も同じようなことで悩み、同じような結論に至ってはまた悩む、の繰り返しに辟易してきているのも事実である。そんな自分自身を、徐々に受け入れられるようになりつつあるというべきか、諦めがつくようになったのか、どちらかは分からないが、結局人生って複雑だよな、という新たな結論を出しつつあるのもまた事実だ。

 

複雑なことが多いからこそ、時に全てを投げ出したくなってしまう。

 

それを意識し始めたきっかけは唐突に訪れた。およそ1ヶ月半前、彼女から別れを切り出されてしまった。突然の出来事に困惑し、目の前に置かれた状況を飲み込むのにそれなりの時間を要した。思い返せば、漁れば漁るほど心当たりが掘り起こされるが、当時は全く気にも留めていなかったことが積み重なり、結果としてオーバーフローを引き起こしてしまった。

結局、それを受け入れたくないという思いに至り、努めて冷静にその旨を伝えた。とはいうものの、実際には相当に重苦しい言葉を浴びせてしまった可能性は否定できない。あくまで喩えとして、と前置きはしたが、自ら命を絶ってしまいたいと思ったことさえ、心身の傷の数々を吐露していた。あまりにも無様で、あまりにも情けなかった。

そんな想いが結実したかは疑問だが、彼女は思いとどまってくれた。そして、現時点ではなんとかこの関係は継続することができている。彼女に膨大な負担を強いてしまったこと、仕事に支障をきたすほどの粗野な悩みの種を作ってしまったこと、申し訳ないという気持ちと、反省という名の自己批判とで脳内が溢れそうになった。だがそれと同時に、再び自分と向き合うことを決断してくれたこと、愛情をもって2人でいられることに感謝の気持ちもまたいっぱいになった。

 

ひとまず波は落ち着いたわけだが、だからといって心が穏やかになったかと言われると、それもまた違うと言わざるを得ない。

今後この関係を続けていきたいという感情と、それを継続できるかという論理。脳内で二項対立が巻き起こってしまっている。

 

現実的なこと、物理的なこととも言い換えられるかもしれないが、それらを考慮した場合、今ある「複雑な感情」を切り捨ててしまった方がいいと考えるのがおそらく多数派を占めると思われる。すなわち客観的な視点を婉曲して言い表わした意味は特にない。(少し難解な語彙を織り交ぜることによって、見かけ上の美しさを追求したくなってしまうのは悪癖である)

このまま現職に復帰すると仮定した場合、生活スタイルは合わず、すれ違いが生まれてしまう可能性は少なからずあると言って差し支えはない。より詳細に言うなら、いつ働きいつ休むのか、何時に寝て何時に起きるか、などが該当する。もっと些細なことなら、衛生観の違いや連絡の頻度なども考慮に入れる必要がある場合が多いだろう。

 

今はまだ、これまで積み重ねたものを簡単に破壊できる自信や気力がないだけなのかもしれない。はたまた、それを破壊されることによる受動的な災害を恐れていただけに過ぎないのかもしれない。ただ、今後もあらゆる局面で、それを取り壊すべきなのか(取り壊されてしまう場合もある)、適宜修繕を加えていくのか、思い悩むのだろうと予測している。

今あるものに固執したくなる気持ちは当然ながら強い。その方が楽であることは言うまでもない。得てして、置かれているものを簡単に捨て去ることは難しい。ある程度の歳を重ねたからこそ、それを維持することが結果的によい場合も多々あるだろう。

 

それでもなお、あのときに流れた雨粒を、虚偽であるとか、幻想であるとか、そのように解釈するつもりは断じてない。あれは嘘でも偽りでも演技でもなく、心から大切にしている人を想って溢れたものと信じてやまない。

 

育てられた環境にもよるだろうが、今もなお将来の自分に対するネガティヴなイメージが付き纏ってしまっている。両親を悪者に仕立て上げたいわけではないが、やれ学費が安いからなるべく公立高校や国立大学に進学しろだの、文系では就職に困るから理系を選択しろだの、文系に行くならせめて手に職をつけるために教職課程を取れだの、人生の様々な選択肢に親(主に母親)が干渉してきた。恨みなどはないが、そのような刷り込みが今の自分に影響を与えている側面は決して否定できないと思う。

確かに先を見据えて準備して行動することは非常に大事であるし、今後もそのような視点は忘れずに持ち続けていたいと考える。今を大事にすべき、という言葉に将来を無視してでも今やりたいことをやれ、ということは含意されていないことも理解しているつもりである。

そもそも自分自身の話とパートナーのことを複合的に捉えることもまた誤りなのかもしれない。結局のところ自己は自己であり、この先の行く末を選択できるのは常に自分ただ1人である、ということも考えられるかもしれない。

 

愛情には責任が生じる、と何かの本で読んだことが重くのしかかる。

果たして、その責任を取る覚悟はいつになったらできるのだろうか。

 

あれこれと思考が巡っては去ってを繰り返してしまい、途中で疲弊しきってしまった。

 

自分はただ、安息地を求めているだけなのかもしれない。

 

そのために、誰かがまた一人犠牲になるのかもしれない。

 

そんなことを考えてしまっていては、誰かを愛する器には到底なれそうもない。

 

最終的に自己否定に回帰してしまった。早く寝た方がいい。

無理矢理にでもポジティヴ変換してった方がいいよ絶対。