26年も生きていることを誇りに思え

駄文を書いては捨て書いては捨て

日記 2020/04/29

ちゃんと記事を書くのは1ヶ月ぶり。ご無沙汰しております。

 

身分としては社会人になった。大学生はおろか学生ですらなくなった。自分でももうこんな歳になってしまったのかと思うと恐ろしい。

しかし世間がこのような深刻で暗鬱な情勢を強いられており、当の自分自身も未だ出社すらできていないのが現状である。

現在は在宅勤務という形で仕事に励んでいるが、どうもこのイレギュラーな状況では働いているという実感が持てない。というのも自分の会社では今のところ社員や同期と今流行りのZoom等のビデオ通話で対面したことがなく、出退勤の管理は全てマイページ上に登録する形をとり、勤務中は課題や自己学習などで時間を費やしているため、どうも社会人らしいことをしている感覚が湧かない。

 

まあ正直今のやり方の方が気楽に毎日過ごせて精神衛生上とても良い。ずっと在宅勤務のままがいい、というのが本音である。

 

そもそもの話になるが、人間が5日働いて2日休むというサイクル自体おかしいと思う。働くことが好きな人であればいくらでも働けばいい。俺は4日働いて3日休みたい。どっかのなんちゃらソフトが去年の夏ごろに4勤3休で仕事をしたそうだが、5勤2休で仕事をするより生産性が上がったらしい。4勤3休は正直めちゃくちゃ羨ましいし、生産性も上がるならむしろどんどん推進すべきではないかと問いたい。

ま、とはいえ4勤3休なんてできる企業の方が少ないと思うので、せめて1週間のうち1日だけでもいいからテレワークで仕事ができるようになることを望んでいる。職種にもよるが、自分のようなエンジニアは自宅でもできる仕事は他の職種より比較的多いと思うし、わざわざ社内で対面して中身のない会議を行うくらいなら自宅からテレビ電話でやればいいのにって常に思っている。もちろん大事な打ち合わせだったり、社外の人と何かしらの会議や打ち合わせや商談などは直接面と向かって行うべきだと考えているが、わざわざ出社してまでやることか?と思う仕事はマジで家でやるなりカフェでやるなりした方が絶対にいいと言い切れる。労働者はもっと自由に働くべきである。

 

とまあダラダラと愚痴をこぼしたわけであるが、そんなに言うのならそれができる環境に身を置けばいい、と口出しする人が2,3人いるだろう。2,3人かは知らんが。

ぶっちゃけそれが正論であることは自分自身わかってはいる。自由に働けない会社に就職したのも全て自分の責任だし、その責任は自分で果たすべきであって、自分みたいな小物が小言をほざいたくらいじゃそう簡単に社会は変わらない。

リスクを負って転職なりフリーランスになるなりするのは自由だし、このまま今の会社に留まってリスクを回避するのも自由なのである。

まだ出社すらしていないので、自分の会社がどんな環境なのかは何もわからないし、どのような人と出会えるのかも予測がつかない。

 

この自粛期間が明けた時、自分がリスクを負うべきか改めて判断することにしよう。

 

久々に書いたら目が疲れた。寝ます。

日記 2020/03/31

学生最後の1日だった。

コロなんとかウイルスのせいで4月からの出社が延期され、正直学生が終わってしまう実感があまり沸いていないのが今の心境。

 

インスタではサクッと卒業の報告的な投稿をしたが、ブログの方でも卒業に際してのお気持ち表明をしようかと思い、文をしたためている次第である。

 

 

大学生活を振り返ってみようとしたが、あまりにもまとまりがない文章がダラダラと続いたので省略する。総じて言えば、最初の2年間はそれはそれで自分らしい大学生活だったと思えるし、後半の2年間は、自分の人生の中でもとても大きな財産となった2年間であった。大学1、2年はまさにモラトリアムの典型と言える日々を過ごしていたし、将来像など何も考えず、ただ今生きている時間を適当に使うだけだった。後悔もたくさんあるが、シンプルに楽しかった。大学3年になると、自分が学びたかった分野を研究している教授のゼミに入室することができ、外部の学術団体にも参加することができ、今まで以上に自分の視野や人間関係が広がったと感じている。自分にとって、この1年間は「遅れてやってきた青春」だったと言っても過言ではない。大学4年になると、否が応でも自分の将来について考えざるを得なくなり、自分の理想と、直面している現実との乖離に苦しみ、様々な後悔が頭の中をよぎった。やりたいことも大してなかった自分が、いざ就活になってデザイナーやらフォトグラファーなどの専門分野に関心を持ったことには自分自身非常に滑稽だと思ったし、文系の大学に進む道を選んだ自分を責めさえした。無理やり自分が学んだことを就活と関連づけて、化学系や自動車などのメーカーに就職することを望んだが、あれよあれよと祈られた。自分の浅はかさを企業に見透かされた格好だった。そこからなぜかSEになると決めた自分。確かに営業よりは向いていそうだなと今でも思うが、果たしてこの先エンジニアとして一人前になれるかは甚だ疑問である。正直転職したい。前述したようにデザイン系に興味があるので、Web系のエンジニアになれたら御の字かな〜とは思っている。現状。

 

月並みだが、本当に人に恵まれた4年間だった。これは紛れも無い事実である。出会った人物全てがいい人だったかと問われればそうではない。ただ、この大学生活を経て、高校時代のクソキモ陰キャから普通の大学生にレベルアップし、自分の性格は少なからず良い方向に変わっていったと自覚している。ただし根本の性格はそう簡単に変わるものではなく、今でも陰の自分を捨てされずにいるが、自分を構成する要素に「陽」の成分が追加されたのは実感としてある。これも全て、関わってくれた全ての人間のおかげである。本当に感謝したい。

 

 

大学を離れることはもちろん寂しいが、それ以上に自分を苦しめている事実は、「学生という立場を終えること」なのである。

 

4年前を振り返ると、合格してから入学を迎えるまでの時間はとても楽しかったと記憶している。世間一般における基準では難関と言われる大学に合格することができ、闇の高校生活を過ごしていた自分にとって、まさに光を求めて日々勉強に励んでいたといっても過言ではなかった。そのため、来たる大学生活には不安も多少あれど、たくさんの期待を胸に秘めていたのであった。

そんな4年前とは対照的に、現在の自分の心中は、目先のことから将来のことに至る様々な不安に支配されている。逃れられない現実が、すぐそこまで迫ってきているのである。若かりし頃の自分は、自立した人間になることなんて簡単だと高を括っていたが、いざその立場に身を置いてみると、そのような考えがどれほど浅薄で馬鹿げたものであることを痛感させられる。

 

 これからの人生、自分の行動や発言、全てに「責任」が内包され、「大人」として自立することが求められる。今こうして拙文を吐き出している自分には、社会の荒波に船を出す覚悟はない。まだまだ学生として無責任に暮らしていたいし、責任や世間体なんていうクソッタレなんかとは無縁でいたい。自由の身のままでありたいのだ。

しかし逆説的には、前述の「自由」という概念は、社会人になってからの方がより多くを得られるのもまた事実である。基本的人権の一つに自由権というものがある。本ブログは決して学術的文献の様相を示すつもりはないためWikipediaから引用させていただくが、そこで「自由権」という言葉を調べてみると、自由の概念の説明がなされている。曰く自由とは「自己のあり方を、自己の責任において決しうること」であり、この自己の責任というワードが重要なのである。ここで言いたいのは、「自由を得るためには、それ相応の責任が不可欠である」ということなのだ。当たり前のように感じる人が多いと思うが、自分自身それを受け入れるのには時間がかかった。

今振り返ってみると、大学時代は自由と責任のバランスがちょうどよかったのだと思う。アルバイトを始めて経済的にも自由度が増し、行動範囲が広がったことによって今まで経験できなかったことを多く味わうことができた。成人を迎えたことで、できることの幅が広がった。一方で相変わらず親の管理下に置かれて生活を送っており、そのことが足を引っ張ることもあった。しかしそのおかげで、自分自身に降りかかる責任は非常に軽いものであったし、アルバイトをしていたとはいえ、親によって与えられた経済的自由権も数多くあった。

 

 

これから先の人生は、選択の連続である。頼れるものはあれど、最終的な判断は自分がせねばならないし、それによって課される責任も自分のもとにのしかかってくる。未来は誰も予測することはできない。正解がどこにあるかも分からない。

昔から、後悔のないように日々を過ごしたいと常々思いながら日々を過ごしてきた。しかしその思いを果たせたことはこれまでの22年間の人生で一度もない。おそらく、後悔のないように日々過ごすことなどこれから先不可能なのではないかと思い始めた。

 

だから、自分はこれから「後悔のないように生きる」という目標を持たないことにした。

 

「生きる」だけでいい。

自分の人生、正解だったか不正解だったかの判定は、死を迎える時に初めて下されるものだ。

 

一歩一歩、無理のないように、生きる。

それが案外幸せだったりする、かもしれない。

 

この記事の着地点も人生の歩み方も絶賛迷走中なのである。

 

 

社会人、頑張って生きよう。

日記 2020/03/28

定期的に更新をしているおかげか、当ブログの月間アクセス数が100に到達した。本当にいつもこんなクソみたいな日記を読んでくれて感謝カンゲキ雨嵐って感じ。

 

3月後半くらいから月末まで毎日更新するぞと意気込んでいたわけだが、自分でも驚くことに三日坊主にすらなれずに2日で毎日更新が途切れた。

一応言い訳をすると、19,20日は夜に予定がなかったためブログの執筆に時間を費やすことができたのだが、21日は大学の友人と久しぶりに飲むことになっており、正直更新は厳しいかなーと思いつつ、飲んで酔っ払った勢いを文章によってアウトプットしたらオモロそうやなーとも心の深層で考えていた。

いたのだが、思った以上に飲みが楽しく、かなり調子に乗って酒をガバガバ飲んだ挙句、俺は御茶ノ水日高屋でやや引き気味の友人2名を置き去りにして、大学院に進学する友人1名と現状への不満や大学生に対する嫉妬心やこれからの未来などについて大声で語り合う厄介者と化していた。気づいた頃には自宅の最寄駅に到着していたし、家に着いて即座に風呂に入りコンタクトを外した俺は、一瞬の迷いや葛藤もなくベッドに転がり込んでいた。

 

そんなこんなでブログを更新する機会を逸した俺は、その後ゼミの追いコンやら学位記の受け取りやら箱根旅行やら何かと用事が重なりブログのことなどすっかり忘れてしまっていた。ゼミの追いコンはめちゃくちゃ楽しかったし、学位記の受け取りでは自分が間もなく社会人として闇の世界に飛び込んでいかなくてはならない現実を突きつけられて少し病んだし、箱根旅行はもう楽しすぎてあと2泊くらいはしたいくらいだった。ここら辺の内容を詳しくブログで書くかどうかはわからんが、そのうち書きたくなったりリクエストがあれば書いてみようかな、くらいの気持ち。ただ、卒業に際して4月までに何かひとつ記事を更新できればなと考えているので更新をお楽しみに。

 

さてCoronavirusの影響で、ここ2日家から出られない状況が続いており、かなり暇になっている。4月から行われるはずだった会社の研修も自宅待機によって2週間ほどなくなり、これからいよいよ社会に出るのかー頑張るぞーと多少は考えていた自分は早速出鼻を挫かれる格好になった。これでも一応真面目な性格ではあるので、社会人になったらなったでそれなりにきちっとしたいなという心持ちでいたので、色々と急にやる気がなくなってしまい非常に心身の調子が良くない。

都内在住ではないので都内への外出ではない限り、一応どこかしらには外出できるようにも思うのだが、いかんせん自分の住む市内でも感染者が確認されており、親の目もあるのでなかなか大きい顔してどこかに出かけることは難しい。割とインドアな方ではあるので、そこまで家にいることに対して苦痛はないのだが、何かやろうと思っても一歩が踏み出せない。

例えば映画鑑賞。正直映画館で見ない限り俺は2時間の拘束には耐えられない。観ていて面白いと思った『ショーシャンクの空に』や『LEON』という作品も、途中で何度も何度もプライムビデオのアプリを一旦閉じてTwitterやらブラウザやら開いてしまった。おもろいしいい作品なんだけどね。アニメも色々観たいな〜と思ってるんだけど、dアニメストアの登録かまずだるい。めんどくさい。誰か代わりにやってくれ。そしたら観るから。多分。

最近太ってきたから筋トレもせなあかんなと思っている。

当然できないけどね。

 

 

誰か一緒に筋トレ始めよ??

筋トレ仲間募集しまーす。LINEちょーだい。

 

 

明日こそ充実した休みにしたい。

日記 2020/03/20

12日後に就職するワイ

ワニの人と奇跡的に同姓同名なので、Twitterのリア垢に誤フォローとみられるフォローリクエストが十数件来た。流石にフォロリク送ってすぐ「あっこの人同姓同名の別人だ」って理解するのか大抵すぐフォロリクは取り消されるが、おかげでTwitterの通知が鳴り止まない。

 

今日は久々に日記っぽいことを書くよ〜なんせネタがあるのでね

先に言っておくと、これ以降ワニの話題は出てこない。一つ言えるのは「俺もバズりてえ〜〜〜〜」ってこと。

 

 

 

「そうだ、海、行こう」

 

なんとなく海に行きたくなった。理由はない。ただ単純に海が見たかった。エモい曲をかけながら、ただ夕日に照らされるそれを眺めたかった。

そうと決まれば話は早かった。昼過ぎまで二度寝していたので、行ける範囲は限られた。都内の海はあまり好きではないので、昼過ぎから出かけても日の入りに間に合う適度に都心から離れた海を探した。

 

 

逗子だった。

 

目的地がわかれば話は早い。カップヌードルで手短にランチ(笑)を済ませ、適当に身支度をして、フィルムカメラをカバンに入れて駅まで歩く。モバイルSuicaに往復の交通費をチャージし、2時間弱の小旅行が開幕。

イヤホンから流れるBGMと共に、ぼんやりと車窓を眺めたり、スマホを弄ったり、スマホで動画を撮ったり。音楽鑑賞に動画撮影にネットサーフィンにと、今日もスマホは欠かせない。スマホはもはや俺の臓器という歌詞を耳にしたことがあるが、まさにその通りである。

 

夕方の4時すぎにJR逗子駅に到着。近くには、最近名前が「新逗子駅」から「逗子・葉山駅」に変更された京急線の駅もある。駅から海岸までは約20分ほどの距離である。ちょっとした散歩には最適な距離感だった。

 

海岸に到着し、スマホで写真を撮る。祝日ということもあってか、海岸で散歩をしたり、焚き火を焚いたり、ボール遊びをしたりしている人々がとても多かった。季節外れの海にここまで人が集まるのだから、さすがは逗子といったところだろう。

最近フィルムカメラの調子がどうも悪く、この日もちゃんと撮影できるかとても不安だったが、どうやらちゃんと撮れているみたいだ。フィルムもしっかり巻けている。

 

歩きながら海岸を見渡していると、何やら防波堤のような構造物があることに気づいた。カップルがエモい空気に浸っていれば、親子とみられる二人組の男性もいるし、一人でただ海を眺めている人もいる。

あそこで音楽でも聴きながらゆっくり日没を待とう。そう決心した。防波堤を歩き、いい感じの場所を見つけて腰掛ける。スマホで写真を撮りつつ、音楽を流しつつ、フィルムカメラで写真を撮る。

 

なぜかスマホをポケットに入れず、腰掛けた太ももの上に置いたトートバッグの上に置いていた、と覚えている。カメラを構えようと少し身体を動かした瞬間、俺の臓器akaスマートフォンがスルッと下に落ちていく。

 

ポチャン、という音がした。

 

やっベースマホ落としちゃった。

 

 

 

え????????????????

 

 

 

これやばくね????????????????

 

 

 

一瞬何が起きたかわからなかった。予想だにしないハプニングがあると、人は思考がストップするとよく言われているが、正しくその状態だった。

 

 

 

やばい、と思ったその時には、スマホはもう見えなくなっていた。スマホは重いので当然浮かんでくることはない。

 

 

終わった。

 

 

俺のエモエモタイムはスマホの紛失により強制的に終了した。

 

手を突っ込んで幾度か救出を試みたが、全く底に手がつくことはなく、あえなく僕の愛しのiPhone XRは逗子の海の藻屑となった。

 

 

喪失感しかなかった。なぜ俺はあんな水辺でスマホをポケットやカバンの中に入れずに持っていたのか。注意が散漫していた数分前の自分を、脳内でこれでもかというほど責めた。自分がADHDなんじゃないかと疑った。俺はゴミ。こんなところで自己肯定感を下げられるとは思ってなかった。

とにかく対処法を知るべく、日没を待たずして逗子を後にした。スマホがないので、帰りの電車内でもひたすら脳内で自分を責め続けた。スマホがないのでYahooの乗り換え案内で最短ルートを調べることもできない。改めてスマホの偉大さと、今までどれだけ自分がスマホに依存していたのかを文字通り痛感した。

 

急いで家に帰って対処法を調べたいのに、こんな時に限って東○線とかいうバカは人身事故で止まっていた。幸い振替輸送で東○線直通電車に乗車できたため、スムーズに帰宅することができた。

家に着きすぐPCで対処法を調べ、Twitterで自虐とともにスマホ紛失の件を呟いた。

 

するとTwitterで友人からリプライがあり、同様の経験をした際にスマホの紛失補償で10000円程度で交換できたとのことだった。

 

早速自分も紛失補償に加入しているかどうか確かめた。

 

 

加入していた。

 

 

マジでよかった〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

令和2年最大の安堵といっても過言ではなかった。これで仮に紛失補償に入っていなかったら、どれだけの経済的負担になっていただろうか。考えるだけで震えてくる。親にも相当怒られるだろうし、マジでよかった(2回目)

 

 

 

明日ソフトバンクショップに行って対応してもらえば、最短でも明後日にはスマホは復活するだろう。マジでよかった(3回目)

 

それにしても、先月もヨーロッパ旅行でAirPods Proを紛失しているし、最近物をなくすことが多すぎる。流石にこんなだらしない真似はできないな、と改めて自らを律しなければならないと心に誓った自分であった。

 

 

就職まであと12日

日記 2020/03/19

週1更新定期

酒を飲んだら饒舌になる人間なので、ブログの執筆も酒飲めばスラスラ書けんじゃん?って思って飲酒したら今めっちゃ眠い 多分途中で下書き保存して翌朝起きたら執筆再開してる

 

高校の記憶を遡りたい

公立高校の受験が大変だった。帰国生は編入試験を受ける必要があった。日本の高校受験には明るくないが、自分が住んでいる県は、一般の公立中学に通う学生は公立高校を1校しか受験できない代わりに、私立高校の入試はかなりハードルが低かった。対して帰国生は公立高校を何校でも受験することができたが、人気の高い高校は枠に限りがあり、入試でよほどいい成績を残さないと入学は難しい。

 

自分の結果から先に話すと、公立高校の編入試験に5回落ちた。

受けた高校の偏差値は軒並み60台で、中には70に迫る難関校もあった。

高校1年の10月に一時帰国して受験を5回受けたが、いずれも不合格。流石に心が折れた。しかしこの無様な結果の責任は当然自分にあった。アメリカでは日本人講師が運営する学習塾に通って試験対策をしていたものの、自宅での勉強時間は毎日せいぜい1時間がやっとで、午前中〜昼過ぎまで塾で勉強して帰宅してから何も勉強しない、なんて日がほとんどだった。とにかくできる努力を怠っただけの怠慢クソ野郎だった。

こんな人間が偏差値60台の人気高校に受かるはずもなく、ただただ現実の厳しさと過去の自分の過ちに苛まれるだけの一時帰国を経験した。

翌月に本帰国し、直後に受けた公立高校の試験になんとか合格した。どうやら退学者が自分の学年で2名いたらしく、運よくそこに滑り込んだというべき結果だった。

 

実力ではなく運で掴み取った公立高校の生徒という切符。これは謙遜でも全くない。紛れもなく事実であった。

 

 

青春の高校生活に胸を躍らせながら入学した自分は、中学同様に卓球部に入った。なかなかガチで取り組む環境が整っていた。卓球部専用の練習場があったし、練習試合も積極的に行う部だった。部活は月2回程度の休みで、時には月1日しか休みがないこともあった。

最初はうまく部内の雰囲気に溶け込めているように思えた。同じクラスに卓球部の人が数人いたし、陰キャが多かったとはいえ自分も同じような人間だったため、そこまで自分が浮いているようにも思わなかった。練習や遠征はキツかったが、たまに同期と遊んだりカラオケにも行ったりして、順調に仲を深めているように思えた。

 

いつ頃からか、同期と少しずつ距離を感じるようになった。原因はおそらく自分にあった。自分は土日の練習や遠征をちょいちょいサボっていたし、その癖調子に乗った態度や言動が時々度を過ぎるようなことがあった、と思う。そのうち部活では孤立した存在になっていき、気づけば誰と話をすればいいのかわからなくなっていった。ダブルスのパートナーを選ぶ時は特に苦痛だった。同期で仲のいい存在といえる人物がおらず、話ができる人はいわゆる1軍のメンバーだったため、2軍だった自分が指名することなんて到底できなかった。大好きだった卓球に嫌気が差し始め、入部から半年が経った高2の7月に退部届を出した。顧問からは「何も言わずに辞めるんじゃなくてちゃんと退部届を出して辞めたのはすごい」と褒められたが、そんな言葉さえ惨めに思えてしまった。

 

高2の頃は本当に楽しくなかった。自分の高校は帰宅部カースト最底辺だったので学校ではひたすら目立たないようにひっそりと暮らしていた。親には部活に入り直せとしつこく言われたが、結局卒業まで帰宅部のままだった。写真部に転部した時期もあったが、初回の活動に参加しなかったので多分入部は認められていないと思う。

 

朝から学校に行って授業を受け、周りが部活に青春を捧げる中、帰宅部帰宅部コミュニティを形成してひっそりと駅まで歩いて帰る日々。親から塾に通わされていたのでたまに塾で勉強することもあったが、基本的には自宅直帰がルーティンだった。

 

高2の文化祭ではクラス内でちょっとした事件もあったし、滅多に人を嫌いにならない自分が、本気で人を嫌いになるなどして、とにかくネガティヴで陰キャオーラを纏っていた。

 

幸いなことに高3はクラスメートに恵まれた。話す人も増えたし、元卓球部の同期とも気づけばわだかまりもなくなった。しかし陰キャだったので恋愛には全く縁はなかった。告白なんてものもLINEでしかできなかった。当然振られた。きっしょ

 

成績は順調に伸び、一時期の模試では文系3科目の成績が学内3位になるなどし、学力ではかなり自信があった。まあそりゃ部活もやらずに塾に通っていたわけだからある意味当然っちゃ当然ではあるが。国立志望だったが理数系が壊滅的に苦手だったので、一応センター試験では5教科7科目受験したが半ば記念受験の気分だった。高3の秋くらいに第一志望を某早慶にしたが、もっと早い段階で国立に見切りをつけて早慶対策をしていれば、今頃意気揚々と紫紺の歌を歌っていたかもしれない。早稲田はクソ。やっぱり○治がナンバーワン。

 

 

 

 

で、4年前の先月ごろ、現在通っているMARCHの某大学に合格した。正直めちゃくちゃ嬉しかった。自分の学力では早稲田はあと1年勉強しないと合格の可能性はないと思っていたし、正直MARCHでも十分満足してたので、合格通知を見た瞬間に心が燃え尽きたような感覚があったことを今でも鮮明に覚えている。

 

正直母校にはあまりいい思い出はないが、この高校に通っていなければなかった出会いもあるわけだし、楽しかった思い出も、苦い記憶も、全部いい経験だった、とは一概には言い切れない。極度の陰キャだった高校生活を送っていたせいか、いまだに高校生活への未練を捨てきれないのが正直な気持ちである。もう高校生なんて二度と戻ることはできないのにね。アホくさ

 

 

総じて陰キャの根暗ストーリーって感じの高校生活。悔いしかない。やり直したい。

 

 

よく「人生やり直せるなら、どこからやり直したい?」という質問が世の中には飛び交うが、自分だったら中学2年の渡米からやり直したい、と答えるかもしれない。

間違いなく中2の夏は自分の人生にとって最大のターニングポイントだったと思う。

 

帰国子女という一見優雅な肩書きを持っている人間ではあるが、内心では劣等感に常に苛まれ続け、高校では明らかなスクールカースト同調圧力に居心地の悪さを感じていた、そんな学生時代。

大学では多少マシにはなったし、陰キャ度も少しは下がったと自負している。

 

 

そんな学生生活もいよいよあと10日もすれば終わりを告げてしまう。社会に出る実感なんて正直これっぽっちもないし、まだまだバカなことやって、バカな日記を書いて、徒然と写真を撮って、友人たちと酒を飲み交わしていたい。

 

 

 

いずれは社会に適合してしまうのか、はたまた社会への適合に抗うのか。

どうなるかは全く予想がつかないが、少しでも夢と理想を掴めるように日々邁進するのみであろう。

 

 

夢を記す。

 

 

「「何者」かになりたい」

 

 

 

 

 

以上、小中高の振り返りでした。結局寝ずに書き通してたわ。おやすみ。

日記 2020/03/13

前回更新から1週間以上経過していた。その間にあったイベントといえば家族旅行くらいしかない。いや友人と飲みにも行ったわ。ブログはよ書けって催促されたわ。更新遅くてすまん。

 

その友人には「家族仲いいな」と言われたが別にそんなことはない。

母親とはそこまで仲が良くないし、なぜか父親を残して兄と母親と自分の3人でSLに乗ると言われた時には「さすがに勘弁してくれ」と言おうとした。言わなかったが。

 

 

 

前回の続きから

 

アメリカへの転居が決まった。確か中学2年の6月頃に知らされたと記憶している。有無を言わせず自分の環境が変わったのはこれが2回目だった。

本当に嫌だったし、異国の地で生活を送るのに頭の中は不安しかなかった。なぜ事前に聞かされなかったのかと親を責めた。

今思えば、予めアメリカに行くと知っていたら、絶対に行きたくないと駄々をこねて親を困らせるに違いなかったし、事後報告の方が拘束力があったのだろう。汚い話だが、駐在手当がついて家計にも余裕ができたのかもしれない。駐在手当があったかは知らないが。

 

 

突然の海外生活。滞在する街には日本人学校があったが、補習校という毎週土曜日のみ開校している学校であった。

平日は現地の中学校に通うことになり、アメリカ人や他国からの移民と一緒に授業を受けることになった。

当たり前だが学校中に英語が溢れており、最初は半ば恐怖のような感情を抱いた記憶がある。幸いにも日本人が多く住む学区にあったため、英語の授業は英語を母国語としない生徒のためのクラスになったり、日本人と一緒に授業を受けたり、日本人の通訳が全面的にサポートしてくれたりした。それでも授業についていくには毎日必死だったし、最初は教師が言っていることの8割は理解できなかった。

友達はほぼ日本人だった。我々日本人は、アメリカ人に対してオープンな性格で誰とでも仲良くなるという偏見を抱きがちだが、現実はそうでもない。もちろん、日本の文化に興味があり、日本人と仲良くしてくれた生徒も中にはいたが、大半の生徒は日本人に対して大きな興味も見せず、白人同士で仲良くしているのがほとんどだった。むしろ、白人の心の深層では、有色人種を見下しているのではないかとすら感じることもあった。

人間のコミュニケーション全てに言えることかもしれないが、誰かと仲良くしたいと思った時、自分が受動的な立場を崩せないと、誰とも仲良くなんてなれない。アメリカでの生活でそれを痛感した。元々の内気な性格に加え、英語を話せないとなると、誰とも仲良くなることなんてできなかった。英語に自信がなくても、積極的にアメリカ人に話しかけたり、スポーツなどのクラブ活動に参加していれば、ある程度英語が話せなくてもそれなりに仲良くなることはできたかもしれない、と後悔することが今でもある。

 

現地の中学校に1年通い、高校に進学すると、それまで仲良くしていた日本人の友人が続々と日本に帰国し、ぼっちに拍車がかかった。今までは数学や理科、歴史などの授業で日本人と一緒に受けられていたが、高校からは日本人は自分だけ、という授業も増えてきた。

1年間アメリカに滞在してある程度は英語も理解できるようにはなっていたが、それでも授業の内容は半分も理解できなかったと思う。

仲良くしていた友人も減り、頼りにしていた通訳も高校ではつかず、授業もまともに理解できずただ1人で授業を受ける毎日。周りの日本人は、野球やサッカーなどのスポーツ、マーチングバンドや合唱クラブなどの課外活動に打ち込んで毎日充実していたが、かくいう自分は何のクラブ活動に所属することなく、放課後は家に直帰してゲームやパソコンに明け暮れていた。時々ピンポンクラブという課外活動に参加していたが、一緒に参加していた日本人含めほぼ相手にならず、格の違いを見せつけて無双するイキリ卓球部と化していた。

 

前述した補習校は、毎週行くのが楽しみだった。最初はもちろん友達ができるか不安だったが、皆明るく歓迎してくれたし、授業も簡単だったので、いい成績を収め頭いいキャラを演じて優越感に浸っていた。

 

 アメリカ生活を振り返ってみると、様々な後悔が思い出される。

現地の友人がほとんどできなかったこと。一切クラブ活動に参加しなかったこと。編入試験の勉強をちゃんとしなかったこと。

 

一言で言えば「辛い環境で楽をしていた」2年半だったと思う。

 

父親曰く、貴重なアメリカでの生活を味わってほしかったらしい。帰国子女と聞けば、一見華やかでお金持ちの子供と見られがちだが(偏見)、自分自身はそんなに偉くなったつもりは毛頭ないし、自分の努力不足が原因だが英語も特別ベラベラ話せるようになった訳でもなかった。他の帰国子女と比較して劣等感に苛まれることもしばしばあった。

とはいえ、貴重な機会を与えてくれた親には今も感謝しているし、この2年半がなければ今の自分はどうなっていたか想像がつかない。様々な人種、バックグラウンドを持つ人々と共に学校生活を過ごしたことは、アメリカのリアルな移民社会の現実を垣間見るには十分過ぎたし、大学受験でも、英語ができるというアドバンテージがあったからこそ、他の受験生より英語の勉強に多くの時間を割くことなく他の科目の勉強に集中することができた、という恩恵もあった。

 

高校時代に続く

日記 2020/03/05

日付が回ってこの記事を書いている頃には既に3月6日になっているわけだが、便宜上5日の日記ってことにしておく。

 

このブログは日記と銘打って毎回更新しているが、正直今日は、というよりここ数日はほとんど家から出ない生活が続いている。コロナと花粉死んでほしい。

今日はコンビニに昼飯を買いに行くついでにタバコを吸うために外出したくらいで、多分30分くらいしか外出してない。

それでも花粉のせいで鼻水ダラダラ出るしくしゃみは止まらんし目は若干痒いし、正直コロナより花粉の方がしんどい。

 

んなことはどうでもよくて。

 

最近夜になると、以前使っていた携帯のカメラロールの写真を見返したり、昔よく聴いていた曲を流していろいろと過去を思い出したりしている。だいたい思い出すのは、中学と高校の頃の記憶である。

 

中学高校の話をする前に、曖昧な小学生時代の記憶を遡ってみる。

 

小学生時代は割と目立ちたがりだったと思う。

小学生の頃は、グループのようなものは形成されていたものの、特にクラス内におけるカーストというものは明確には形成されておらず、みんな仲良くやっていたような記憶がある。

それでも小学生は運動ができる奴ほど上に立つ風潮のようなものはやんわりとあった気がする。自分は運動が出来たわけではないが、頭はよくそれなりに活発な性格ではあったし、運動ができる奴らとも仲が良かったので、なんとか自分の居場所は保っていた。

小2の頃はちょっとグレた。新人の女教師が担任となり、めちゃくちゃ舐めた態度を取っていた。今でもよく覚えているのが、給食の時間に当番をサボって、悪友たちと昇降口の前で駄弁っていたことである。今思うと何やってんだ俺ってなる。

当時はお笑いブームが日本中に広がっており、自分はそれにまんまと影響されていた。小3からクラスの友人とコンビを組んでお笑いをやりはじめた。これがなかなかウケがよく、これ以降お笑いキャラとしての地位を確立させていった。

小学生の頃は学級委員長も何度か務めていて、クラスの中でも割と中心的なポジションにいるなという自負は持っていた。

なお、この頃から恋愛に関しては奥手で、小2からずっと同じ子を好きだったが、結局告白はできずに終わった。

 

 

小5の2学期に転校を経験した。まさか自分が転校生になるなんて思いもしなかったし、当時はめちゃくちゃ転校が嫌だった。

そして転校してから初めて、自分が人見知りする性格であることを自覚した。

同じ県での転居ではあったが、田舎から都会へと引っ越すことは正直戸惑いも多かったし、クラスが4つもあることがまず驚きだった。前の小学校は2クラスしかなかった。

 

転校生という人種は、いつの時代でも小学生にとって注目の的である。

初日からたくさんの知らない人に話しかけられ、まだ大して仲良くすらなっていないのに、いきなり放課後に遊びに行こうと誘われる。今思えば、放課後に遊びに行くことで仲を深めることが誘ってくれた人物の狙いだったのであろう。

しかし、新しい環境、そして知らない人に囲まれて生活することは、転校して間もない自分にとって、想像以上にストレスだった。

 

とはいえ、時間が解決してくれるのである。しばらくすれば新しい学校にも慣れて、だんだんと以前の自分を出せるようになっていった。お笑いもまたやるようになって、双子でコンビを組んでネタを披露したりなんかもした。学年全体にネタを披露する機会もあり、なかなか度胸もあったな〜と今振り返っても少し誇りに思える。

持ち前のリーダーシップ(笑)も健在で、6年生の頃には運動会の応援団長も務めた。正直これは嫌々だったけど、結果的には自分たちの組が優勝してめちゃくちゃ嬉しかった。

 

 

それなりにうまくいってた小学生時代。中学時代もそれなりだったかもしれない。中の中あるいは中の上くらいの生活。

卓球部に入った。なぜなら一番やってて楽しいから。ボールを打っている時が他のどの入部体験より楽しかった。吹奏楽部と迷っていたため、吹奏楽部に入部した友達からは裏切り者扱いされた。ぴえん

 

卓球部では1年生時に学年責任者になった。部内ではこれまただいたい中の中から中の上くらいの強さだった。中2に上がると部長を任され、部内でも3、4番手くらいの選手になっていた。

部活は楽しかった。1年の最初はボールが打てず辛かったが、3年生が引退してからは台を使って練習できるようになり、そこまで厳しい環境ではなかったので、和気藹々と練習に取り組んでいた。

 

勉強もそれなりにできた。数学は少し苦手だったが、全教科割とそつなくこなせたため、このままの成績を維持すれば、偏差値60以上の県立高校には進学できるだろうと考えていた。

 

 

中2の夏、そんな淡い妄想も水の泡となった。

 

 

アメリカへの転居が決まった。

 

 

 

 

 

 

 

続く